「人の幸福を考える人がいる限り、広告の価値はベーシックな面で高くなる。」——特別パネルディスカッションレポート<後編>

今年4月に開催したイベント「AdverTimes DAYS」で実現したパネルディスカッション「広告界『G8』——箭内道彦と大御所クリエイターが語りつくす!」。全日本シーエム放送連盟(ACC)の会報誌『ACCtion!』の人気連載『広告ロックンローラーズ』がきっかけで企画され、会場には多くの広告関係者が詰めかけた。
秋山晶、大島征夫、小田桐昭、葛西薫、坂田耕、副田高行、細谷巖、宮田識——広告界の大全盛期を牽引し、いまも第一線を走り続ける錚々たる面々が集結。60歳、70歳を超えてもなお高みを目指し、自らに課題を課し続ける8人の、作り手としての誇り高き心。その核心に迫る、またとない“幻のセッション”となった。

パネラー

  • ライトパブリシティ 秋山 晶
  • dof 大島征夫
  • 小田桐昭事務所 小田桐 昭
  • サン・アド 葛西 薫
  • マッキャン・ワールドグループ 坂田 耕
  • 副田デザイン制作所 副田高行
  • ライトパブリシティ 細谷 巖
  • ドラフト 宮田 識

モデレーター

  • 風とロック 箭内道彦

※敬称略、五十音順

前編はこちら

小田桐:「広告の本質とは–?」ということは、たぶんこれまでにも考えてきたんでしょうけれど、突然言われると狼狽えてしまって、嫌な質問だなと思いました(笑)。とりあえず、自分の中でもう一度定義してみたところ、やっぱり「心をくすぐることで、大勢の人を動かす」というのが、広告の機能だと思うんですね。心をくすぐるというのはなかなか難しいのですが、言ってみれば「エンターテインメントを提供する代償として、何かをしてもらう」という行為なのではないかなと。広告は基本的に「見られない」「嫌われる」ものという考え方があると思うのですが、僕たちがやることは、人をくすぐって、殻に閉じこもった人の心をとろけさせて、何かをさせるということ。しかもそれをできるだけ大勢の人にさせるっていうことだと思うんですね。ですから広告は本質的に、どこかにエンターテインメントとか、人をもてなしたり、楽しませるような部分がないとうまくいかない。あまり正面切ってぶつかっていくのではなく、“軽み(かろみ)”というか、軽くて、気持ちよくなってもらえるようなものを作ろうという考えが前提にあります。いままで自分がどんな広告の作り方をしてきたかなと考えると、やはり「何かをしてもらうために、喜んでもらえるものを提供する」ということだったと思います。そういう関係がないと、人の心をくすぐって、どこかへ動いてもらうということは、なかなかできないなと……。そんなふうに、ぼんやり考えてきました。

箭内:ありがとうございます。それでは葛西さん、お願いします。

葛西:自分が作るもの、という意味で言うと、「潤い」であってほしいなと感じています。例えば、街があったとして、そこに川が流れているのといないのとでは全く違うということと同じです。ないと寂しい、あると助かる。そういう存在になりたいなという気持ちがあります。それから、僕はグラフィックが中心ですので、1枚のポスターや新聞広告があったとしたら、写真やデザインというのは、その広告の一要素にすぎず、すべてではないと考えています。目に見えるグラフィックそのものより、その向こうにあるものを見せたい。そこにあるものによって、そこにないものが伝わって欲しい。そう考えると、グラフィック広告が伝えられることの範囲は、時間的にも空間的にも広がるだろうなということを、時々思ってみたりしています。それが、作り手としての考えです。一方で、日常生活を送る中では、私も広告を見る側の一人です。「こういうものが見たいな」「こういうものは嫌だな」ということの狭間でいつも往復運動をしているのですが、そういう見る側の気持ちになって広告を作ろうということを、時々、自分に言い聞かせることがありますね。広告は、「たくさんの人に伝える」という意味の言葉ではありますけれど、見る側はみな個人ですので、あまり「広告」という言葉を意識するまいと思っているところもありますね。あれこれと考え始めると輪郭線がはっきりしないのですが、そんなことを思いながらやっています。

箭内:写真やものの向こう側・裏側にあるものを見せたい、というお話が印象的です。この前、ミュージシャンの友人と話をしていたときに、「最近、世の中の人が、言葉の裏側を読んでくれなくなったよね」という話が出たんです。例えば「人間はもう終わりだ」って歌ったら、「人間が終わりとは、けしからん」と言われる。「人間はもう終わりだ」という言葉は、実は「これからどうやって生きていこうか?」という問いかけかもしれないし、「人間って、愛おしい」という気持ちが込められているのかもしれない。SNSやいまの時代を批判するつもりはないけれど、書かれた言葉の通りにその言葉を受け取る癖が、特に最近よく見受けられるなって話をしていて。葛西さんが作る広告は、やっぱりその奥にあるものを感じずにはいられないというか、「目の前にあるものだけが全てではない」ということを僕らに教えてくれる。そうすると、広告ではない他のものを見るときにも、僕らはそういうものの見方ができるようになっていく。振り返ってみると、僕の人生の中でもそういうことがあったなと、いま思いました。「教訓」というと、葛西さんは違うとおっしゃるんですけど。それでは坂田さん、お願いします。

坂田:何かの本で、「私たちが吸っているこの空気というのは、酸素と窒素と広告でできている」というのを読んだことがあって、面白いなと思いました。それとは別に、広告ってなんだろうと、自分でもちょっと考えたんです。長いのと短いのがあるんですけど、一番短いのは、経営者や企業の志に基づいて行う「おもてなしのコミュニケーション」なんじゃないかということ。先ほど見た皆さんの作品と、最近流行っている広告全般を比べてみると、テレビCMから「間」が、グラフィックから「余白」がなくなったなという気がしているんですね。コミュニケーションにお互いの気持ちを入れ込む「間」とか「余白」がなくて、ワーッと一方的に言われている感じがする。そのあたり、皆さんがどんなふうに感じているか聞きたいですね。

次ページ 「相手を思う心の余裕が、広告の「余白」や「間」に表れる」へ続く

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