第6回・経営者にしか書けない広告

【前回コラム】「第5回・「ポスターの真の意義は、商業広告を芸術化するところにある」~デザイナーたちの言葉~」はこちら

「日本の企画者たち」は、広告・メディア・コンテンツ界の礎を築いた93人の列伝です。この人たちの仕事や言葉から読者は多くのヒントや心構え、そして勇気を受け取ることでしょう。今回は、経営者の書いた広告についてご紹介しましょう。
阪急東宝グループの創始者、小林一三が1909年に自ら書いた箕面有馬鉄道(阪急電鉄の前身)の宣伝パンフレット「如何なる土地を選ぶべきか、如何なる家屋に住むべきか」は、文学青年だった小林らしい美文調の書き出しで有名です。

「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ! 出生率十人に対し死亡率十一人強に当る、大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、慄然として都生活の心細さを感じ給ふべし、同時に田園趣味に富める楽しき郊外生活を懐ふの念や切なるべし。」

小林は都市環境の悪化を指摘し、郊外こそユートピアであると説きました。そして住生活を重んじる生活をアピールしました。「家屋は諸君の城砦にして安息場所なり。古より衣食住といへど、実は住食衣というが自然の順序なるべし、家庭の平和、人体の健康等、家屋の構造に原因すること少なしとせず、世人の家屋に意を払うこと、切なる理ありというべきなり。」

そして交通機関の便利、学校・病院の存在、電信電話の便、風光絶佳、田園趣味ある生活などが模範的な郊外生活であり、「最も適当なる場所に三十余万坪の土地を所有し、自由に諸君の選択に委し得べきは、各電鉄会社中、ひとり当会社あるのみ」と宣伝しています。

1920年阪急電車神戸線本線の営業開始に際して出した新聞広告「奇麗で早うて,ガラアキ。眺めの素敵によい涼しい電車」は、小林の筆になる名コピーとして知られます。「ガラアキ」という意表をつく言葉が面白い。客があまり乗らず空いているというマイナスを、ゆったり座れる利点に逆転させているところが見事です。

1929年、日本初のターミナルデパートとして大阪・梅田に阪急百貨店を開店させ、開店広告はいつもの通り小林が書きました。「阪急百貨店 いよいよ四月十五日から開店いたしますが どこよりもよい品物を、どこよりも安く売りたい、と言う阪急百貨店の大方針に添うようにしたいと思うと、なかなか品物が揃わない、すこぶる貧弱で、不行届きで、お恥かしい次第でありますが、しかし我々の希望は、気長に、堅実に、立派な店に育てたいと思っておりますので、それにはどうしても皆様方の、ご同情と、ご指導と、お引き立てに、よるより外に、途はないのでありますから、開店そうそう賑々しくご光来のほど、伏してお願い申しあげます。阪急急行電鉄株式会社 社長 小林一三」

小林のコピーは常に率直で、肉声がこもっています。よそゆきの言葉ではなく、目の前にいる相手に普通の大きさの声で話しかけるように飾らず誠実に話しています。だから伝わってくる。品物が揃わず貧弱で不行届きで恥ずかしいと、腰を低くしへりくだって言うところに社長でなければいえない大きさが、かえって感じられます。そこに真実味がある。コピーライターには決して書けないコピーです。

森永製菓創業者・森永太一郎が1899年初めて店を開いた時の挨拶広告(ちらし)も、謙虚な言葉です。「謹告 合衆国は『キャンディ』ならびに西洋菓子の製法についてその巧妙を極めることを以前から聞いていたので、自分は去る明治21年米国に渡航して以来、その製法を究学すること十年余の長期となり、いささかその薀蓄を会得したため今夏ようやく帰省した者で、誠に薄資の者であるため諸事不完全で初めから吾が意をみたすことも十分にはできていないが、多少にかかわらずご請求いただき、どうかその品質のほどをお試しいただきたく心から希望する次第です」

このたどたどしい挨拶文に若き森永太一郎の艱難辛苦が表現されています。幾多の挫折をしつつともかく西洋菓子という新しい領域の仕事をスタートさせたのです。

森下仁丹創業者・森下博は創業に際し、「広告による薫化益世を使命とする」ことを事業の根本方針の一つに掲げました。すなわち広告を商売の重要な柱とし広告に世の中を益することを企業の役目としました。森下は、国内外の災害に必ず義捐金を送り、それを新聞広告によって世に知らせました。1906年の台湾の震災、1908年のイタリアの大震災、1914年の中国華南の水害などはじめ、自ら義捐金を出すと共に人々に協力を呼び掛けました。1909年8月の広告は、「大阪空前の大火に付 仁丹愛用諸君に急告す」というヘッドコピーで、焦眉の救済を要する者が1万人に及んでいる事態を報告しています。

自社は一千円を寄付したがさらに二千円を寄付すると告げ、「満天下の諸賢願わくはこの火急の救済に同情せられんことを」とコピーは語りかけます。「諸賢に仁丹のお買い上げを請うて寄付したるが」「引き続き仁丹のご愛用者にご常用として、はたまたご進物用として一包でも多くお買い求めを乞う。それにより金三千円を義捐せんとす」というコピーは、仁丹を買うことが災害への援助になることをアピールしています。今日でいう“コーズリレーテッド・マーケティング”の先駆的事例であり、斬新な手法です。

江崎グリコ創業者・江崎利一は創意工夫の人です。自ら栄養菓子を創案し、「グリコ」と名付けました。飴の形は真心を表す「ハート」型、箱の色は他社にない「赤色」を使いました。「一粒三百メートル」という名キャッチフレーズを考えたのも江崎利一です。

「日本の企画者たち」には、この他、経営者たちの驚きの企画と発想が数多く紹介されています。広告のプロは負けていられません。

岡田 芳郎(おかだ よしろう)
岡田 芳郎(おかだ よしろう)

1934年、東京・小石川に生れる。早稲田大学政経学部卒業後、1956年に電通入社。営業企画局次長、コーポレートアイデンティティ室長などを経て電通総研常任監査役を務め98年に退職。大阪万博「笑いのパビリオン」企画、「ゼロックス・ナレッジイン」はじめ数々の都市イベントをプロデュース。電通のCIビジネスへの取組みにリーダーとして、アサヒビール、NTT、JR、東京電力をはじめ数多くのプロジェクトを推進した。また、企業メセナ協議会の創設に尽力した。

宣伝会議より『日本の企画者たち ~広告、メディア、コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(2016年3月30日発売)を刊行。

岡田 芳郎(おかだ よしろう)

1934年、東京・小石川に生れる。早稲田大学政経学部卒業後、1956年に電通入社。営業企画局次長、コーポレートアイデンティティ室長などを経て電通総研常任監査役を務め98年に退職。大阪万博「笑いのパビリオン」企画、「ゼロックス・ナレッジイン」はじめ数々の都市イベントをプロデュース。電通のCIビジネスへの取組みにリーダーとして、アサヒビール、NTT、JR、東京電力をはじめ数多くのプロジェクトを推進した。また、企業メセナ協議会の創設に尽力した。

宣伝会議より『日本の企画者たち ~広告、メディア、コンテンツビジネスの礎を築いた人々~』(2016年3月30日発売)を刊行。

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