【前回コラム】「箭内さん!箭内さんにも悩みってあるんですか?」はこちら
—2016年を振り返ってみると、東京藝術大学の准教授になったことは、箭内さんにとって大きなトピックだったのではないかと思います。その後、いかがですか?
正直なところ、最初は「大変だな。やっていけるのかな」っていう気持ちでした。東京藝大における僕の価値って、「全速力で走っている現役がそのまま教える」っていうことだから、自分の仕事を減らさずにやっていかないといけない。広告の仕事を半分に減らして東京藝大に教えに行くんじゃ、僕は教える資格がないし、大学にとっても意味がないことなんです。現業の速度は緩めず、量は減らさずに、意外と真面目にやっていきたいと思っているところです(笑)。
学生たちと向き合う中でだんだんと気づいてきたのは、上の世代の人が若い人を否定したり批判したりしていても始まらないということ。始まらないどころか、その若い人たちがこれからの世界をつくるし、僕たち年寄りを養ってくれるのに、養ってくれる人たちを潰してどうするんだっていう気持ちが沸いてきたんです。
若い人たちがもっともっと面白くなって社会に出て行くことが、社会が強くなるというか、未来が輝くことなんだなと強烈に感じているんですよね。別に、自分が引退してバトンタッチしたよってことじゃなくてね。この世界を面白くしてくれる人たちに、(桃太郎の)きびだんご的な何かを渡すのが、「教える」っていうことなんじゃないかと感じています。「授ける」というと不遜なんですが、若い人に力をつけてもらうことしか、未来をつくる道はない。そのために自分は大学で教えているんだっていうことが、東京藝大に勤めて一年近く経った今、ようやく分かりました。
—最初から学生や若い人たちに教えたい気持ちがあったわけではないんですね。
自分はあんまり人に教えるタイプの人間じゃないなと思いながら、ここまで生きてきたんです。自分が何をやるかということで手一杯でもありましたし。先生を志す人の気持ちが、若い頃からちゃんとは理解できていなくて、「先生になる人って、何がモチベーションなんだろう?」って疑問に思っていたんですよね。自分のことより、その次の世代・時代のことを考えるって、僕の時間の感覚には合っていないというか…。
僕が「人に教えること」に初めて向き合ったのは、大学に入って4年間続けた、予備校の講師のアルバイトですね。ただ、そこでも、自分の作品をつくる時間を削ってまで人に教えるというのは、本末転倒なんじゃないか…と感じてはいました。
—と言いながら、箭内さんはあちこちの大学で教えてきましたよね。
東京藝大では、准教授になる前は2007年から非常勤講師をしていました。そのときは、劣等生だった自分の、母校への恩返しの気持ちとともに、学食の名物「バタ丼」も食べられるしというくらいの感じで、年に一回だけ授業をしていて。
青山学院大学の非常勤講師は、会社を構えている渋谷区にある大学ということで、地元への恩返しができるんじゃないかという気持ちで引き受けました。
秋田公立美術大学の客員教授は、僕がプロデュースしている高橋優というミュージシャンの出身地ということだったり、高橋と二人で「箭内優」っていうラジオ番組を秋田放送でやっていて…という縁があったので、これも何か、秋田を含めて東北への恩返しになれば、という思いがあったんです。でも、やっぱり「僕が教えることって何にもないな」ってどこかで思っていたんですよね。