執筆:渡邉 寧(わたなべ・やすし)
ホフステード・インサイツ・ジャパン代表取締役。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了後、ソニーに入社。7年にわたり国内/海外マーケティング(イギリス駐在含む)に従事後、ボストン・コンサルティング・グループに入社。メーカー、公共サービス、金融など、幅広い業界のプロジェクトに4年間従事。その後独立し、組織開発での企業支援を行う傍ら、ホフステード・インサイツ・ジャパンの経営に携わり、現在、京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程で、文化とこころの問題について研究している。
自分の顔を「盛る」AIフィルターにNO!
今年3月、TikTokがリリースした「Bold Glamour」というAIフィルターが、世界中で話題となりました。このフィルターはリアルタイムでユーザーの顔を「盛る」ことが可能で、その修正効果の高さと正確さから大いに注目されました。技術進歩への驚きを集める一方で、現実の自分の顔とはあまりにも異なる「理想的な顔」に修正されることから、その使用に対しては懸念の声も上がりました。
美容製品ブランドのDoveは、このBold Glamourに対して「No」を発信するキャンペーン、「#TURNYOURBACK」を展開しました。TikTokのBold Glamourフィルターに対して、後ろ向きになって顔を見せない行動を呼びかける内容で、このキャンペーンは10億インプレッションを稼ぎ、ジャーナリストのニッシェル・ターナーと女優のガブリエル・ユニオンは、アカデミー賞受賞会場でメディアのカメラの前で後ろ向きになる行動を取り、キャンペーンへの賛同を示しました。
このキャンペーンが支持を集めた背後には、自尊心(self-esteem)という観点からの若者のメンタルヘルスへの懸念があります。
心理学者によれば、こうしたフィルターは自分と他人との比較ではなく、「盛った」自分と「現実の」自分との比較になるため、その心理的な影響が大きくなることを指摘しています1。特に若年層のユーザーにとっては、こうしたAIフィルターは自己肯定感を低下させ、メンタルヘルスを損なう可能性があると懸念されています。
同様のAIフィルターはTikTokに限らず、多くのSNSにも存在しているのですが、新しいAIフィルターであるBold Glamourが非常に高性能であること、またTikTokが若年層に大きな影響をもっていることから今回のキャンペーンが展開されました。アメリカの若者のメンタルヘルス悪化は一つの大きな社会問題と捉えられています。アメリカ疾病予防管理センターの2021年の調査によると、女子学生の約1/3が自殺を考えたことがあり、これは10年前よりも10%増加しているそうです2。Doveのキャンペーンは、このような深刻化する社会問題に対する取り組みとして行われました。
文化によって変わる「自尊心」の位置づけ
「#TURNYOURBACK」キャンペーンはAIの影響力を見て取れる最新事例の一つです。キャンペーン立ち上げと浸透スピードが極めて迅速であったことは、人々がAIが社会や人のこころに与える影響に対して極めて敏感であることを物語っています。同時に、こうしたキャンペーンを見ると、AIが及ぼす影響に対する人々の感じ方には文化の違いがあるように感じます。
「#TURNYOURBACK」キャンペーンはソーシャル・マーケティングの事例と考えることができます。コトラーが定義した「ソーシャル・マーケティング」は、社会的な行動変革のメッセージを「プロダクト」として扱い、そのマーケティングを行うという試みです。しかし、このソーシャル・マーケティングは、一般的なマーケティングに比べて困難であることが多いとされています。その主な理由は、ソーシャル・マーケティングが、消費者のニーズに基づいた試みではないからです。
社会的な行動変革に同意するかどうかは、ニーズではなくて価値観に基づいてなされます。キャンペーンで主張されているメッセージが、自分の価値観と一致する場合、人々はそのメッセージに同意し、行動変革を起こす可能性が高くなります。一方、どんなに優れたクリエイティブや表現であったとしても、そこで語られるメッセージが自分の価値観と合わない場合は、そのメッセージは無視されるか、最悪の場合、反感を買うことになります。
#TURNYOURBACKキャンペーンでは自尊心が重視されています。そして、その自尊心の捉え方が個人主義的であるように見えます。そのため、AIフィルターを拒否するというメッセージに同意するかどうかは、聴衆がどの程度個人主義的な文化背景を持つかに依存するのではないかと感じます。
そもそも、自尊心には国による差があることが知られています。国際比較調査によると、日本の自尊心のスコアは低く、53カ国での比較調査を行った2005年のデータでは、日本は最低スコアです3。
確かに自尊心の重要性は日本でも認識されています。現状が他国に比べて著しく低いならば、社会的対策が必要だという議論がもっと盛り上がってもおかしくはないはずです。しかし、日本でそのような気配は見えません。このことは、日本では自尊心が欧米とは異なる捉えられ方をされている可能性を示唆しています。
自尊心の捉え方の背後には個人主義の程度の違いという文化差があります。オランダの社会心理学者ヘールト・ホフステードによれば、日本の個人主義スコアは46であり、これは日本が個人主義の文化ではないことを示しています。対照的に、例えば、アメリカの個人主義スコアは91、イギリスは89であり、米英は非常に高い個人主義的文化傾向を持っていることがわかります。
文化による自尊心の重要性の違い
個人主義文化を持つアメリカやイギリスでは、子どもはそれぞれ異なる能力や可能性を持って生まれてくると考えられます。その結果、親や学校の教師は子どもに対して「あなたには力と可能性がある。自分の強みに目を向けなさい」と子どもの時から語りかける傾向が高くなります。そして、自尊心高く育った人々は、他者や社会にポジティブな影響を与え、その結果を見てまた自尊心が上がるという循環が生まれます。
一方、日本は個人主義よりも集団主義傾向がある文化で、子どもは集団の中で周囲の人々との調和を崩さないようにすることが重視されます。その結果、親や学校の教師は子供に対して「人に迷惑をかけないようにしなさい」と語りかける傾向が高くなります。そして、周囲に気を配るよう育った人々は、他者や社会の考えや気持ちを汲んで、それに適応しようとする傾向が高くなります。
こうした文化差は自尊心の形成方法の違いに繋がると言われています4。個人主義においては力のない自分に落胆し自尊心が下がりますが、集団主義においては、周囲の期待にこたえられない自分に落胆し自尊心が下がります。
キャンペーンの成否は文化の影響を受ける
Doveのプロジェクトは、「ありのままの自分」を尊重するという観念を元に、AIフィルターが真実の美しさを歪める可能性に反対の立場を取っています。つまり、AIフィルターの使用が「現実の自分は美しいとは言えない(=価値がない)」という誤った認識をもたらし、それが自尊心に対する損傷となりうるという立場を取っています。
この視点は個人主義の価値観を色濃く反映しており、個人主義文化の人々からは賛同を得やすいと想像されます。しかし、文化的な基盤が個人主義的でない国や地域では、キャンペーンの目指す反響が得られない可能性もあります。なぜなら、そのような文化ではAIフィルターの使用が害悪であるか否かを判断する基準が、個々の美しさへの影響ではなく、それが他者との関係にどの程度の影響を及ぼすかという観点で検討される傾向が高いからです。
世界全体では、個人主義的な価値観が広がりつつあります。これからの広告クリエイティブを考える際には、この個人主義の価値観を深く理解することが必要です。しかし、一方で、個人主義の程度には地域差があり、相対的には集団主義の特徴を残す個々の国や地域があるということを念頭に置いておくことも必要です。
具体的には、日本のように、欧米に比べると相対的に集団主義的な価値観が強い国や地域においては、「AIフィルターに背を向けよう」という個人を重視したメッセージは必ずしも大きなインパクトを残せない可能性があります。集団主義文化を前提としたキャンペーンを考えるのであれば、例えば、「AIフィルターについて周囲の人は本当のところどう感じているのか?」や「AIフィルターは友達との繋がりを傷つけているのではないか?」といった人間関係に焦点を当てたメッセージを探究しキャンペーンを組むことも有効な方向性ではないかと考えられます。
【関連記事】
【はじめに公開】新刊『世界の広告クリエイティブを読み解く』
もっと早く読みたかった。―『世界の広告クリエイティブを読み解く』によせて(井口理)』
マーケターのグローバル感覚を鍛える一冊。―『世界の広告クリエイティブを読み解く』によせて(細田高広)
「日本らしさ」の見直しにも通じる―『世界の広告クリエイティブを読み解く』によせて(鈴木健)
特殊を経由しないと普遍にはたどりつけない。―『世界の広告クリエイティブを読み解く』によせて(古川裕也)
『世界の広告クリエイティブを読み解く』山本 真郷・渡邉 寧 著/6月27日発売/定価:2,420円(本体2,200円+税)
ある国では「いい!」と思われた広告が、なぜ、別の国では嫌われるのか?そこにはどんな価値観のメカニズムがあるのか?オランダの社会心理学者ヘールト・ホフステード博士の異文化理解メソッド「6次元モデル」で世界20を超える国と地域から、60事例を分析。グローバルな活躍を目指すマーケターやクリエイターはもちろん、あらゆる人に広告を通じて「異文化理解」を楽しく学んでいただける一冊。