要さんはパリ在住の撮影監督として活躍されていて、先日公開されたばかりのNetflix大ヒットシリーズ『トップボーイ』の最終シーズン、そして今年の「トロント国際映画祭」で正式出品された映画『Inshallah A Boy』も撮っています。世界から注目を集めている要さんですが、実はフランスの映像業界で多様性を支持する団体「Divé+」を設立した人でもあります。
各国で浸透しつつある「多様性」というテーマ。海外で活動されている要さんのキャリアの裏には、並々ならぬ熱意と行動力がありました。
第2回
小野山 要(Kanamé Onoyama)
職業:撮影監督/シネマトグラファー
拠点:パリ、フランス
ギャスパー・ノエの映画を見て、言葉も話せないままフランスへ
——要さん、はじめまして!今回は貴重なお時間いただき、ありがとうございます。あらためまして、どのようなお仕事をされているのか教えてください。
撮影監督です。映画、ドラマ、ミュージックビデオやCMなどの作品を撮らせてもらっています。拠点はパリで、フランス在住歴は今年で19年目になります。
——拠点はパリですが、撮影監督として世界で活躍されていますよね。まず、要さんの生い立ちと、海外に行かれたキッカケについて教えてください。
僕はもともと田舎で育ち、中学高校は厳しい寮生活でしたので、唯一の娯楽が図書館で本を読むことでした。2000年に都内の大学に入学して、初めて携帯電話を持ち、初めてインターネットに触れたので、上京してから世界が目まぐるしく広がりましたね。読書が好きで、大学では文学について学ぶことになりましたが、将来作家になりたいという思いはなく、在学中に文学から何かやりたいことを見つけられたらいいなという気持ちでした。
海外に行くきっかけは、大学1年生の夏休みですかね。親が「どこか海外へ行ってこい。これからは国際社会になるから若いうちに一回は海外に行ったほうがいい」と言ってくれて。両親は英語も話せませんし、特に海外に縁があるわけでもないですが、21世紀がはじまり時代的にそういう流れを感じていたんでしょうね。そこで、たまたま大学でフランス文学を学び始めていたこともあって、フランスに行くことにしました。今改めて考えると、そのように言ってくれる両親の家庭に生まれたことは、とても恵まれていたと思います。そうじゃない家庭の方が多いでしょうし。そのおかげで今があると思っています。
——19歳で初めてフランスに行かれた時には、すでに言語は話せたんですか?
いや、なにも話せない、なにも読めない状況でした。もちろん大変だったんですが、それ以上に僕にとって大きな経験でした。カルチャー・ショックですよね。結局その経験を帰国してからも忘れられなくて、もう日本に居場所を感じれなくなってしまって。
就活の時期になっても、周りはみんな面接の準備をしているのに、僕だけ茶髪でした(笑)。「就活はしない!」という意思表示だったんでしょうけど。だんだん映画がやりたいという気持ちも強くなり始めていた頃でしたね。
——映画が好きになったキッカケは?
本格的に映画が好きになったのも大学に入ってからです。上京してすぐ、前々から雑誌で見て気になっていた「シネマライズ」という渋谷のミニシアターに足を運びました。そこで初めて観たのが、ギャスパー・ノエ監督の『カノン(原題:Seul contre tous)』というフランス映画でした。
個性が強い監督で、映画の内容も強烈で「なるほど、映画はこういう表現ができるものなんだ、文学のような複雑な表現ができる媒体なんだ」と感銘をうけました。それからは映画を漁るように観ましたね、フランス映画を中心に。
——本格的に拠点をフランスに移されたのは、いつですか?
「海外に行きたい」という気持ちと「映画をやりたい」という気持ちはあったんですが、まだ自分のなかで迷いがあり、卒業後は国内の大学院に行こうと思っていました。でも大学院に行ったところで、2年後には同じ葛藤を繰り返す自分が見えたので、大学を卒業する直前にやっと決心がつき、2004年4月にはスーツケースひとつでフランスにやってきてました。
——映画学校を出てからどのようにしてキャリアを積みあげていかれたんですか?
映画学校を卒業したのは26歳の時で、それから4年間ぐらいは「見習い」として働いていました。最初は機材屋さんでケーブル掃除をしたり、来る人来る人を捨て猫のように見つめて挨拶をしたり。それが実り、現場に出れるようになって。でもずっと下っ端の仕事をしてました。週末は学生映画やミュージックビデオだったり、ときどき自分が撮れるものを撮りながら。
当時まだ全てフィルムでしたので、助手を10年やることが当然で、自分もそういう道のりで行こうと思っていたんですけど、なかなか難しくて…。普通、「見習い」は長編映画1、2本やって「助手」に昇格したり、ある程度評価されてポンっと売れたりするんですが。僕の場合、「見習い」として長編作品を7本やって。結局4年間ぐらい経ってもなかなか正式な「助手」にあがれなくて。
自分の上に入ってくる人たちがなぜか自分より若かったり、自分よりカメラを知らなかったりして。その頃には僕もすでにフランス語を話せていたので。そこで「あれ、なんかおかしい。もしかして負けが決まってるゲームをしているんじゃないか」と気付きました。
——だいぶしんどいですね…。
金銭的にも限界のところまで来てました。来月の家賃を払えるのかとか。そう苦しんでる時に、ちょうどデジタルカメラがやってきました。シネマカメラREDやCanon 5D を見た瞬間、「これを使って自分でやるしかない」と思ったんですよね。最後の賭けとして。もうこれで無理だったら日本に帰ろうと。
そんなことを考えていたら、同じ時期に2つ仕事のお話が来ました。1つ目は車のCM撮影。正式な撮影助手として1週間ぐらいのお仕事で、ギャラは家賃3ヶ月分ぐらいもらえるお話。2つ目は広告代理店でインターンをやっていた映画学校のブラジル人の友人から。そこで彼が初めてゲットした仕事を僕に撮ってほしいという、カメラマンとしてのお話。仕事内容を聞いたら、彼の会社が実験的につくるフェイスブックだけで流すWeb CMで、予算は150万円ぐらいしかない仕事。ギャラは家賃の半分ぐらいでした。
その2つの仕事の撮影日程が被ってたので、どっちか選ばなくちゃいけなくなって。そこで決心して、後者の方を選びました。そしてこれを機に「アシスタント」としていつか売れるというビジョンは諦めて、「カメラマン」としてやっていくことに全振りしたんです。
——決心されたんですね。具体的にどういった変化を?
もう「自分は撮影監督です」と言い始めて、自分のリールを載せるサイトも作り、SNSのプロフィールももっと仕事寄りにして、自分で自分を売り込みました。
すると世界が一気に好転して、いきなり忙しくなったんです。パリで一番年寄りの見習いが急にパリで一番若いカメラマンになりました(笑)。それも当時はフィルムとデジタル両方できる人があまりいなくて。僕は当時20代だったのでDSLR(デジタル一眼レフカメラ)で動画を撮ることもすぐ覚えることができたし、映画学校で学んでいたのでフィルムも装填できました。
あとSNSの普及も大きかったですね。インターネットで作品が評価されて、それを見た監督から海外の仕事をもらったり。
——時代の波に乗られたんですね。では独立されてからは、ずっと広告を?
CMや広告の仕事を週に3、4本ぐらい撮っていました。自分はファッションやビューティーの世界に特別興味があるわけではなかったのですが、パリではやっぱりそういった仕事が多くて。気が付いたらその世界の専門家みたいになってました。
とにかく生き残ることが第一課題で、仕事は途切れることなく安定したんですけど、「あれ、最初にやりたかった映画は?ギャスパー・ノエは…?」と、我に返りました。少しでも芝居っぽいものを撮ると、「いや、カナメはそうじゃないでしょ」と言われることもありました。通り道だと思っていたのに、行きたい映画の世界に全然近づいてなかったんです。
人生を切り拓くべく、ロス、そしてロンドンへ
——そこからどうやって「映画」に方向転換されるんですか?
自分の人生でなんらかの革新を起こさないと新しい道は切り拓けないと思って、2017年にはじめて休みをとり、まずロサンゼルスに行ってみました。もうやけくそでしたね(笑)。
ロスにいるエージェントと会って、自分のリールを見せたら「作品は良いけど、あなたのことは聞いたことないし、いきなりロスに引っ越したとしても何もやれることはない。フランスにいた方がいいよ」と正直に言われました。そりゃあそうだなと思ったんですけど、その時「とりあえずロンドンに行ってみたら」と大きなアドバイスをもらいました。イギリスでも同じことをやれば、必ずアメリカ人にも届くから、まずはロンドンをじわじわ攻めたらどうだと。
——なるほど、それで「イギリス進出」、二度目の海外進出を図るんですね
暇があればロンドンに通うようになりました。パリから電車で通える距離なんですけど、それまでロンドンを思いつかないぐらい、パリは隔離されていたんですね。知り合いは特にいなかったのですが、積極的に足を運び、現地の監督にアプローチをかけたりしていました。
そして、その間「ロンドンの人を振り向かせるような作品をパリで撮らなければ!」という強い思いがあって。それで撮れたのがアウフガング(Aufgang)というアーティスト・グループの『Backstabbers』というMVでした。
今でも自分の好きな作品です。この作品をきっかけに、ロンドンの人たちと話ができたり、仕事が取れるように。ロンドンのエージェントもこの作品でつきました。
それまでやっていた、いわゆるスタジオものだったり、白バックでモデルや商品を撮るような仕事は全て断るようにもなりました。空いた時間に、「クレルモン=フェラン国際短編映画祭」に行ったり、映画関係の人に逢ったり、とにかく「映画を撮るんだ」と心を切り替えました。
結果、翌2018年に大きな短編映画を2本、予算約1.5億円(100万ユーロ)以下の長編映画を2本撮ることができました。映画三昧の一年でした。もしかしたらその内面の劇的な変化によって周りからの見え方が変わったのかもしれません。
——カンヌ国際映画祭でも話題になった映画『Abou Leila(アブ・レイラ)』はその時期に撮られた作品ですよね。拝見させていただきましたが、画面越しに要さんの熱量も感じました。
アルジェリアのムンムンとする砂漠のなかで撮ったので(笑)。
『アブ・レイラ』によって、映画祭で評価される長編映画が撮れるようになったことは嬉しいです。
——同時に大きなミュージックビデオを何本も撮られてましたよね。
『アブ・レイラ』を撮り終え、ちょうどパリに帰ってきた2019年の年始、ロンドンのヘンリー・スコフィールド(Henry Schofield)監督のMVのお話をいただきました。砂漠での撮影で疲れきっていたので「ミュージックビデオやりたい!」とすぐ受けさせていただきました(笑)。
それがアーティストのワイリー(Wiley)の『Boasty』というMV。曲もMVも大ヒットして、それからヘンリーとのコラボの一年が始まり、2019年は逆にミュージックビデオ三昧の一年でした。
——ヘンリー監督とずっとタッグを組まれていた印象です。
ヘンリーがとにかく忙しい監督だったので、毎回撮影中に「次も空いてるか?」と立て続けにプロジェクトをくれて、撮りながら次の撮影の準備もしていました。その流れでストームジー(Stormzy)という、イギリスではトップアーティストの『Vossi Bop』というMVもやらせていただき、その年のUKミュージックビデオ大賞を獲りました。デゥア・リパ(Dua Lipa)のMVもその流れで。
それで一気にイギリスで認知されるように…。むしろイギリスだけはそうでした。ロンドンだとやりたい監督とマッチングする確率が高くて。パリではいただく仕事が5年前ぐらいにやりたかった仕事だったり。なんでフランスだけ自分にチャンスをくれないのかという歯痒さの中、ちょうど「BLACK LIVES MATTER」(以下、BLM)運動が広まり始めました。
撮影現場で直面した「多様性」の問題
——2020年はもちろんコロナもありましたが、BLM運動の年でもあり、人種差別に対する意識が世界各地ですごく高まりましたよね。
あのアメリカでの事件で、イギリスやフランスでも怒り心頭の人々が街にたくさんいましたね。映像業界内でも、人種差別的である現実に問題を投げかけていた人も多くいて、「映像業界も変えていこう!」というエネルギーが物凄くありました。
その時に、知人であるイギリス人撮影監督に「今度パリで撮影するから、カナメの『ダイバーシティー・クルー』(Diversity Crew)のリストがほしい」と言われたんです。BLM運動でも活動家になった黒人の彼がほしかったのは優秀な非白人のスタッフリスト。でもフランスの映像業界には多様性も何もないんですよ。今も撮影協会に所属しているレベルの黒人の撮影監督はゼロです。
——え、ゼロなんですか?
ゼロなんです。アラブ系の撮影監督もほとんどいないです。フランス映像業界の撮影監督協会(AFC)に加盟してるのは200名ぐらいですが、その中で日本人が僕含めて2名、あとチュニジア人1名。その他全員、白人のフランス人なんです。2023年現在も。白人じゃない撮影監督はいるはいるんです。でも存在しないことになってるんですね。
それから、僕自身だんだん現状を変えたい気持ちが芽生えてきて、人種差別やジェンダー差別の闘争について少し勉強したりしました。#MeToo運動もありましたね。
——「ダイバーシティー・クルー」のいない現実を変えられないか、と思われるんですね。
でも、非白人のスタッフリストを作ることは、フランスでは違憲なんです。人種を理由に名簿化したり、人種比を数字に表す行為自体が「人種差別」だという考え方で、法律で禁止されています。
イギリスやアメリカではそうではなく、データをとり、数字にして「不平等さ」を明確にしていこうという考え方。例えばロンドンの人種分布っていうのは白人が54%、有色人種が46%と、ちゃんとしたデータがありますが、フランスでは人種別データは取られていません。
僕自身どっちの考え方が正しいのかその頃分からなくて、フランスが考える「平等さ」や「人権」について共感するところも多かったですし、日本から来た僕は学費がほぼタダであったことにすごいなと思ってましたから。ただ映像業界だけでいうと、僕はフランスの方が遅れていると感じました。
今考えると、ロンドンが僕にチャンスをくれたのも、人種的なマイノリティである僕に興味をもってくれるような文化的土壌があったからかもしれません。フランスでは「劣ってる人」、イギリスでは「新しい人、面白い人」として迎えられましたから。(後編に続く)
- 小野山 要・KANAMÉ ONOYAMA
- パリを拠点に活動する撮影監督。トリリンガル(日英仏)。
- これまでの主な作品:
- ・Netflixシリーズ『Top Boy/トップボーイ』(2022)(2エピソード)、(2023) (2エピソード)
- ・映画『Inshallah A Boy』 ー カンヌ国際映画祭2023「批評家週間」賞ノミネート、トロント国際映画祭 2023 正式出品、全米公開予定
- ・映画『Inshallah A Boy』 ー カンヌ国際映画祭2023「批評家週間」賞ノミネート
- ・映画『Abou Leila』ー カンヌ国際映画祭2019「批評家週間」賞ノミネート
- ・Stormzy MV『Vossi Bop』ー 2019年 UK Music Video Awards 最優秀賞受賞
- Pepsi, L’Oréal, Nike, Cartier, Samsung, Dior, Yves Saint Laurent, FIFA, Balmain, Uber, Air France, Vogue,ISETANなど、数々のCMも手掛ける。
- タイムライン
- 2000年 慶應義塾大学入学、夏休みにフランスを訪れる
- 2004年 慶應義塾大学文学部フランス文学専攻卒業、渡仏
- 2007年 映画専門学校ESRA International Film School卒業
- 2007年〜 アシスタントとして活動する
- 2009年〜 独立し、撮影監督として活躍する
- 2021年 フランスの映像業界で多様性を支持する団体「Divé+」を設立
- 2022年 フランス撮影監督協会(AFC)に加盟
- Website: kanameonoyama.com
- Socials: @kaname.onoyama & @dive.plus.fr