もうひとつの郡上を「聞く」旅へ 郡上藩宝暦騒動ゆかりの地を訪ねる【岐阜】

本記事では、宣伝会議「編集・ライター養成講座」第48期の卒業制作で最優秀賞を受賞した野里真理子さんの作品を紹介します。
なお、記事の内容は2024年8月現在のものです。

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昨年、直木賞候補作に選ばれた歴史小説『まいまいつぶろ』に登場する「郡上藩惣百姓(ぐじょうはんそうびゃくしょう)の一件」。現在の岐阜県郡上市で起こったその「一件」は、「郡上藩宝暦騒動」と呼ばれ、現在も地域の人々によって語り継がれている。郡上の名を広める「郡上おどり」や「水の町」とは異なる、「もうひとつの郡上」を訪れ、今、郡上に生きる人々の「言葉」に耳を傾けた。

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「郡上藩宝暦騒動」とは

「このことが真実ならば、老中だろうと手加減は無用じゃ。百姓にばかり酷い目を見せてはならぬ」

『まいまいつぶろ』の中で、徳川幕府9代将軍家重(いえしげ)の言葉を聞いた大岡忠光(おおおかただみつ)が、田沼意次(たぬまおきつぐ)に伝えた言葉だ。家重は生まれつき言語障害があり、その言葉を聞き取れた忠光を「口」として側に置き、政治を行った。また、将軍と老中(幕府の政務を統括する最高職)の取り次ぎ役であった意次を、騒動の裁判に参加させ、その解決に当たらせた。

イメージ 村木嵐『まいまいつぶろ』(幻冬舎)第170回直木賞候補作。第12回日本歴史時代作家協会賞作品賞、第13回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。

村木嵐『まいまいつぶろ』(幻冬舎)第170回直木賞候補作。第12回日本歴史時代作家協会賞作品賞、第13回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。

「郡上藩宝暦騒動」は百姓一揆のひとつで、江戸時代、宝暦年間に起こった。郡上藩主・金森頼錦(かなもりよりかね)は、宝暦4(1754)年、幕府の奏者番(そうじゃばん)に任命される。奏者番とは、大名が将軍に拝謁する際、来歴や献上品を披露する役職。出世の登竜門とされたが、交際費などの出費のかさむ役職でもあった。

こうした背景から赤字財政となった郡上藩は、稲の実り具合を検査して年貢額を決める「検見法(けみほう)」という年貢の徴収方法へ変更し、さらに、農民が生活のために隠れて作る「切添田畑(きりぞえでんぱた)」にも年貢を課して、収入増を図ろうとした。

藩では老中本多正珍(ほんだまさよし)ら、一部の幕府関係者に取り計らってもらい、「検見法への変更は幕府の指示によるもの」と偽装までして強行を画策。藩の政治は藩で行うものであり、郡上藩の年貢の徴収方法に、幕府が介入すること自体、筋違いであった。

農民たちは、検見法ではなく、年貢の額を一定とする従来の「定免法(じょうめんほう)」にしてほしいと何度も藩へ訴えるが聞いてもらえず、幕府へ直接、訴えを決行。検見法阻止以外にも、幕府が検見法を指示するのはおかしい、城下の橋梁工事の給金を貰っていない、年貢以外にも税金をかけられて困っているなど、藩に対する不信感や、困惑が窺える内容であった。

当時、集団での訴えは厳禁。死罪など処罰の対象であったが、これ以上は耐えられないと、農民たちは死を覚悟して訴えに臨んだ。

訴えの内容から、幕府関係者介入の疑いを感じた幕府は、宝暦8(1758)年7~12月までの5ヶ月に及ぶ農民、幕府・藩関係者の取調べと裁判を行い、偽装に関わった老中などを免職、藩主を領地没収・御家断絶とし、農民14人を死刑、その内4人を獄門(1人は判決前に牢死)とした。獄門となった3人の首は、翌年、郡上の刑場でさらされた。

江戸時代に起こった百姓一揆は3200超。老中や藩主が処分された例は他になく、最後まで地域のために戦った農民たちは、現在も「義民」として称えられる。

次ページ「義民のリーダーのふるさとへ」に続く

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