前回記事は、開始以来の大反響となりありがとうございました。書く側としても励みになります。さて、今回からは、オフラインのものも含め、メディア上であり得るコンテンツの形態について、基本フレームとなる3つのコンセプトを提供し、3回に渡ってそれぞれについて解説をしていきます。
具体的には
- ストック⇔フロー
- 参加性⇔権威性
- リニア⇔ノンリニア
の3軸になります。
あらゆるメディア・コンテンツを分類する三次元のマトリックス
この世の中のあらゆる物体が、「縦」×「横」×「高さ」の3次元で構成されているように、メディアの世界ではあらゆるコンテンツ、それこそ「聖書」から「投稿ニャンニャン写真」のようなエッチ本、はてはTwitterのツブヤキからニコ動のMAD動画まで、上記の3次元上でマッピング可能だと私は考えています。
その第1回である今回は「ストック」型のコンテンツと、「フロー」型のコンテンツの違いについて解説したいと思います。この3つの中で最重要の概念が、このフローとストックの視点だと私は思います。なぜならば、この区分が「時間」という軸に関わるものであり、今や、あらゆるメディア消費者にとって「時間」こそが、もっとも貴重なリソースだからです。読者は「今ココ」で、自分がすぐにアテンションを振り向けるべき必然性を感じないと、コンテンツが良質であるか否かに関わらず、読もうとしなくなる傾向が、昨今、どんどん強くなっていると筆者は感じています。
しかし、まず、注意したいのは、これらのフレームは、どちらが上とか、下とか、そういう類のものではありません。ストック型のコンテンツとフロー型のコンテンツ、どちらが上か? 下か? などについて議論することは、全く無意味です。これは、野球に例えて言えば、ピッチャーが投げる球種として、速球と変化球のどちらが優れているか? について、議論するようなものです。実務家(この文脈で言えばプロ野球のピッチャーとキャッチャー)にとっては、打者を抑える(読者の心を掴むこと)ことが最重要であって、速球と変化球は、決して対立するものではありません。(いささかマニアックな例えで恐縮ですが、今回の3次元マトリックスは、野球で言えば、野村監督がピッチャーの配球を分析するために考案した「野村スコープ」のようなものですね。知ったからすぐに勝てるわけではないのですが、プロ同士が簡潔に会話をしたり、自分たちの立ち位置をチェックするための共通言語、モノサシみたいなものです)
さきほど、速球と変化球のどちらが優れているか?についての議論は無意味だと言いました。しかし、速球一本槍のピッチャーと、速球も変化球も両方、場面に応じて投げられる自在型のピッチャー、どちらが優れているか?ならば、当然、後者ですよね。速球ばかりならば、打者の目も慣れてしまい、最後には打たれてしまいますから、変化球も織りまぜ、いわゆる「緩急をつけた」ピッチングができるピッチャーが、プロの世界では当然、望ましいとされます。メディアの世界も同じことです。速球一本槍で来たピッチャーがスランプに陥り、変化球を覚えて再生するように、フロー型コンテンツ一本槍でやって来て、ユーザー増加が伸び悩みに陥ったWebサイトが、ストック型コンテンツも増やして新たなユーザーを獲得する、といったような可能性は大いにありますので、「発想の引き出し」としても、ぜひ理解して欲しい概念こそが、このストックとフローの軸なのです。
ストック型であるとはどういうことでしょうか? これは時間が経ってもコンテンツとしての価値が劣化しない、つまり「賞味期限が長い」コンテンツであるということです。いわゆる教科書に出てくるような古典・名書の類ですね。日本文学で言えば、源氏物語とか枕草子とか平家物語とか、夏目漱石の「こころ」とか、そういうラインナップがストック型の代表例です。
「世界最古の長編小説」と言われる源氏物語は、少なくとも1000年近く前には完成していたようです。1000年の時を経てもなお、現代語訳が出版され、広く読まれ続けている(=読者ニーズがある!)ということは、男女の恋愛を扱ったその内容に時代を超えた普遍性があり、コンテンツとして、ほぼ半永久的とも言える賞味期限の長さを獲得できた証拠と言ってもよいでしょう。すでに1000年を経てなお生き残っているわけですから、おそらく今後、100年や200年の間に、源氏物語が誰も見向きもしない単なる古文書になるとは思えません。22世紀になってもなお読まれ続けるのでしょうし、もしかすると、他の惑星に移住した未来の人類ですら、源氏物語を読んでいるかもしれません。それくらいに不朽の「ストック」ぶりだと思います。
もう少し、読者の皆さんの日常に馴染みの深いストック型コンテンツの代表例を紹介、しましょう。それはウィキペディアです。ウィキペディアに書かれた膨大な量の素晴らしく詳細な解説や記述の価値、例えば「フランス革命」の項目について書かれたその内容が、10年や20年の時間の経過で価値が減少するとはとても思えません。
また、ウィキペディアは現代のネット上におけるストック型のコンテンツを考えるうえで、もうひとつ、決定的に重要な特徴を教えてくれます。それは、サイト訪問者のかなりの比率が、Googleに代表される検索エンジン経由だということです。Googleとウィキペディアは、直接に資本などの関係はないのですが、もう「素敵な共犯関係」と言ってもいいくらいの蜜月ぶりに思えます。Googleで、固有名詞を検索すると、多くの場合、上位3番以内にウィキペディアでの該当項目がヒットし、莫大なユーザーがGoogle経由で日々、ウィキペディアに送り込まれていきます。また、Googleの検索結果は「質が高い」「使える」という評価のかなりの部分は、実質的にはウィキペディアがもたらしたとも言えましょう。
Googleのページランク、つまりは検索エンジン上でのランキングという価値尺度は、それまでの大衆商業メディアを主に支配していたコンテンツの「鮮度」という軸とは全く違ったコンテンツの序列を、Web上の記事コンテンツに与えました。このことは、現代のメディア環境において、ストック型コンテンツのあり方に、これまでになかった大きな可能性を、特に、その記事コンテンツの書き手の態度に対して、もたらしたのではないか、と筆者は考えます。
その可能性とは、具体的には「この記事は、今すぐには読まれないかもしれないが、きっと将来において、Googleの検索結果を通じ、今ココにはいない誰かに発見されて、その時に、強い興味と熱烈な歓迎を持って読まれるだろう。だから、私はそのことを信じて、今ココにはいないかもしれない誰かのために、良い記事を作ろう」という態度です。
何だか、死後に評価された画家ゴッホのような態度でカッコいいですね(笑)。このような態度は、Googleの登場以前には、ほとんど誇大妄想狂的なナルシストだ!と笑われてオシマイだったのですが、現在においては十分に「現実的」と言えなくもない態度になりました。しかも、単なるメディア人としてのプライドや矜持の次元ではなくて、ビジネス的にも、記事を公開してから2~3日の間だけ読まれて10万PVを獲得し、それで終わりというコンテンツよりも、1日あたり1000PVかもしれませんが、向こう数年に渡って毎日1000PVずつをコンスタントに検索エンジン経由でもたらしてくれるコンテンツのほうが、「アクセス獲得の固定票を獲得する」という意味でもありがたいのです。
現代において、特にWeb上でストック型のコンテンツを商業メディアとして考える場合、検索エンジン経由で、ユーザーから個別の記事コンテンツをどのように発見してもらうか?(いわゆるSEO。特にロングテール型ワードでのSEO)ということは、単純に技術的なレイヤーに留まらず、より編集的な観点、例えばタイトルに入れる見出しでのシズル感の工夫など、あらゆる側面から強調してもしすぎることはないほどに、決定的に重要なことになっています。「ストック型はSEOを意識せよ!」これは鉄則になります。
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