スマートフォンと哲学が出会うとき ソーシャルメディア時代の基礎情報学(4)

東京大学大学院情報学環教授 西垣 通

インターネットやソーシャルメディアの普及により、ネット空間は膨大なナマ情報があふれる「情報の海」となった。マスメディアが羅針盤としての機能を失ったいま、私たちはどうやって航海を続けていくことができるだろうか。古代の人々は、星座の位置情報を頼りにした天測航法で大陸間を渡ったという。基礎情報学は、情報の海を渡ろうとする現代人の天測航法なのかもしれない。「GPSナビゲーションシステムなしではどこにも行けない」と、恐れを抱く人々もあるだろう。しかし、好奇心の声を聞き探究を続けるならば、その成果は、やがて人類を新たな文明へと導く強い力となるに違いない。

羅針盤なき航行

「情報の海」という言葉は、近年すっかりクリシェ(常套句)になってしまった。テレビのデジタル化とともにチャネルや番組数が倍増したことも一因だが、やはりソーシャルメディアが急速に発達し、ネット上で一般の人々のナマの声が無数に飛び交うようになったことが大きい。

それらの声の大半は、断片的で、文脈も背景もはっきりしない。整然と展開される論理的議論からはほど遠いのである。とはいえ、ズシンと腹に響いてくるような、いきいきしたリアリティを持つものも少なくないのだ。ある声は右に行くのが正しいと叫び、別の声は左に行かないと救いはないと脅す。情報の大海に投げこまれたわれわれは、いったいどういう進路を選ぶべきか、迷いに迷うのである。

これまでは、曲がりなりにも、テレビや新聞が羅針盤の役割を果たしていた。保守やリベラルといった相違はあっても、何が公正で合理的な選択なのかについて、一応説得的な議論を示してくれていたのである。だが今、たとえば脱原発は是か非か、膨れあがる社会保障費のため消費増税をすべきか否か、などといった喫緊の問題にたいして、いったいどんな選択が正しいと言えるのだろうか。専門家の意見も、原発事故以来あまり信じる気になれない。多様な思考や価値観が交錯する中で、もはや社会的規範と呼べるものは見えなくなってしまったのだ。

では、どうすればよいのか。基礎情報学の中には、情報社会の規範や道徳について議論も当然ふくまれてくる。生命論に立脚する以上、それは生命体の存続という視点から問題を捉えようとする。動物の中には社会を創るものもいるし、利他的な行動をする場合もある。彼らはいかなる原則のもとに選択行動を行うのだろうか。

生物学者リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」説はよく知られている。これによれば、遺伝子は自らの複製を増やすことを目的としており、生物個体の選択行動はこの目的にしたがうことになる。たとえば、生殖能力のない働きアリが自分を犠牲にして女王アリに尽くすのは、種や群れのためではなく、姉妹である女王アリが自分と共通の遺伝子をもつ子を産んでくれるからだ。血縁関係のある他者のために自分を捧げるのは、遺伝子の存続という観点から合理的に説明できるのである。

しかし、この原則だけで人間社会の規範や道徳を割り切るのはあまりに粗っぽい。政治的理想のために命を捨てる人間もいるし、逆に、死にそうなわが子を放置してネットゲームに夢中の親もいる。必要なのは、より精密な議論なのである。

個人か共同体か

マイケル・サンデル(Michael J. Sandel、1953年~)。アメリカ合衆国の哲学者、政治哲学者。1980年からハーバード大学で教える。共通善を強調するコミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的論者。クリントン政権やブッシュ政権で生命倫理の問題に関する委員等を務めた。サンデルの「政治哲学」講義を収録したテレビ番組『ハーバード白熱教室』(Justice with Michael Sandel)はNHK教育テレビで放送され、話題を呼んだ。

政治哲学者マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」がNHKで放映され、評判になった。ただし人気の秘密は、サンデルの議論の内容というより、討論参加型授業の運営の巧みさではないだろうか(英語の勉強として最高だったと感心している人さえ少なくない)。なぜなら、サンデルは共同体の意義を重んじるいわゆるコミュニタリアンだからだ。個人中心の米国社会でならともかく、もともと集団中心=共同体主義のこの国で、サンデルの意見を有り難がるのは不思議という他はない。欧米崇拝の根は深いのだ。

サンデルの敵はジョン・ロールズのリベラリズム(自由平等主義)哲学である。米国の倫理哲学は従来、「最大多数の最大幸福」を奉じる功利主義が支配的だったが、一九七一年にロールズが『正義論』を著し、功利主義を徹底的に批判した。その議論が一躍注目をあび、民主党政治の倫理的支柱となったことはよく知られている。そして、そのロールズをさらに激しく批判して有名になったのがサンデルという次第だ。

ではサンデルはいったい、ロールズのどんな論点を批判したのだろうか。

ジョン・ロールズ(John Rawls, 1921~2002年)。アメリカの政治哲学者、道徳哲学者。1971年に刊行した『正義論』(A Theory Of Justice)は大きな反響を呼んだ。これ以降の政治哲学(規範政治理論)業界は「ロールズ・インダストリー」とも呼ばれるほどに。日本との関係では、1995年に雑誌『Dissent』に掲載した論文「原爆投下はなぜ不正なのか?: ヒロシマから50年(Reflections on Hiroshima: 50 Years after Hiroshima)」が知られる。ロールズは原爆投下を「すさまじい道徳的悪行」とし、戦争を主導した軍部と一般国民を同等に扱ったトルーマンの「日本人を野獣として扱う以外にない」という発言を強く批判した。『万民の法』 (中山竜一訳、岩波書店、2006年)、『公正としての正義』(田中成明編訳、木鐸社、1979年)などの著書が邦訳されている。

ロールズの議論はカントやロックの普遍的な道徳観を踏まえているが、その論理構成は驚くほど洗練されている。まず、すべての人間は「原初状態(original position)」にあり、自分の社会的身分はもとより、資産や能力、知能、体力、性別などの属性を全然知らないと仮定する。いわゆる「無知のヴェール」だ。

この抽象的な条件のもとで、何が正義(justice)なのかを、自分の利害のみにもとづいて合理的に選択すべきだ、というのである。もし自分の属性を知っていれば、人間はなるべく有利な選択をしたくなるだろう(資産家の息子なら、相続税率の引き上げには反対する、など)。だが、無知のヴェールのもとでは、富、地位、名誉など社会的資源の配分に関して、おのずから公正な判断にみちびかれるというわけだ。

むろん、現実には配分の格差は生じる。その際には、社会の中で最も不遇な人々の利益を重視すべきだ、というのである。人間の属性の多くは偶然えられたものである。だからロールズの主張は、個人的自由のもとで、平等を徹底的に追求した規範の典型例と言ってもよいだろう。

共通善と集合知

ロールズにたいするサンデルの批判は、「原初状態」や「無知のヴェール」という仮定の不自然さに向けられる。社会は利害や目標、道徳観などの異なる多様な個人からできている。善や規範にたいする考え方もさまざまで、それらは共同体における生活経験によって育まれるものだ。とすれば、公正な社会で大切なのは、普遍的な正義や権利の尊重というより、むしろ各個人の道徳的判断と、共同体全体への配慮や献身なのではないか、というわけだ。

このサンデルの主張は、ある意味で確かに説得力がある。基礎情報学的に考えても、人間の判断とは主観的経験から生まれるものである。質的固有性をもつからこそ、心はオートポイエティック・システムという閉鎖系モデルで捉えられるのだ。道徳観も共同体メンバーの相互コミュニケーションから醸成されるものに他ならない。

にもかかわらず、ロールズの議論を単に否定してよいのだろうか。無知のヴェールが仮構なことなど、初めからわかっている。ロールズの議論の秀逸さは、原初状態という仮構から出発して、個人が自分の利害のみにもとづく合理的選択を行った結果、社会全体の客観的公正さを達成できる、という普遍的な論理を組み立てた点にあるのだ。

情報は本来、主観的=生命的な存在である。だが、それは言語表現されて社会的存在となり、さらに情報機器で処理されて客観的=機械的な存在となる。そういう普遍化のプロセスがしばしば過度の形式化をもたらし、空疎な計算主義がわれわれの生命力を脅かしている。基礎情報学はこの状況を批判する知なのだが、それだけでなく、同時にまた、普遍的合理性を推進するIT文明に指針をあたえるための知でもあるのだ。個別性に立脚しつつ普遍性を追求する努力が、いま求められているのである。

ジェームズ・スロウィッキー(james surowiecki, 1967年~)は、『ザ・ニューヨーカー』「フォーチュン」『ワシントン・ポスト』など有力紙で執筆するアメリカのジャーナリスト。コネティカット州メリデン出身、10代をプエルトリコのマヤヘスで過ごす。北カリフォルニア大学やエール大学で学んだのち、金融ジャーナリストに。著書『「みんなの意見」は案外正しい』は、多くの人々の知恵を集めることが必要な場面で引用されるベストセラーとなっている。

最後にここで、「集合知(collective intelligence)」についてふれておこう。この言葉はベストセラー『「みんなの意見」は案外正しい(原題は「群衆の英知」)』ですっかり有名になった。著者のジェームズ・スロウィッキーはその中で、独立した多様な人々の意見を集めたほうが、少数の専門家より正しい結果をえられると力説している。ネット時代の今日、この主張はきわめて魅力的だ。一足飛びに、ネットを利用した直接民主制の夢想を熱く語る声さえ聞こえてくる。

だが家畜見本市で牛の体重を当てるような「正解のある問題」ならともかく、社会的公正さの問題でそううまく行くだろうか。価値観の異なる人々の共通善に関して、簡単な集計が有効だという根拠など存在しない。いったいいかなる条件のもとで集合知は規範を与えうるのか――恐らくそこに、基礎情報学の取り組むべき重大な課題がひそんでいる。

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にしがき・とおる
1948年東京生まれ。東京大学工学部卒、工学博士。日立製作所主任研究員ならびに明治大学教授を経て、1996年に東京大学社会科学研究所教授。2000年より東京大学大学院情報学環教授。文理にまたがる情報学を研究している。著書『デジタル・ナルシス』でサントリー学芸賞(芸術・文学部門)受賞。このほか『スローネット』『ネットとリアルのあいだ』など著書多数。『1492年のマリア』など小説も手がける。
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