玄侑 宗久(作家、福島県福聚寺住職)/イラスト:田中ひろみ
「玄侑宗久さんに聞く禅についてのQ&A(1)」はこちら
Q5 戒名の金額をたずねること自体がお寺に対して失礼だと言われます。ですが、都会では、近くに相談する人もいないので、故人の遺体を前に、家族会議でもめてしまいます。納得して感謝してお支払いするためにも知りたいのですが、聞いてはいけないものなのでしょうか。
A 「訊いていけない」とは思いません。おっしゃるように、地域コミュニティが機能していない状況は、田舎でも出現しつつあり、率直に訊いてくる方もいらっしゃいます。率直に訊かれたら率直に答える用意がなくてはいけないと思います。ただ、どう答えるかは、和尚の力量次第ということなのでしょうね。
何より、御当家の事情をよく知っていなければいけません。もしよく知らないとしても、個別の事情への配慮がとても大切だと思います。あ、これは答える側の問題ですね。訊く側は、「誠に失礼とは存じますが」と言って訊けばいいんじゃないですか。
Q6 禅宗の僧侶の方の恋愛観は、ほかの方と違うのでしょうか。禅の修行をする前と後で、異性への見方は変わりましたか。
A 前半のご質問については、「わかりません」と申し上げるしかありません。人による個別性を超えるほど修行した方なら、一定の傾向はあるかもしれませんが、ほとんどこれは個性次第ではないでしょうか。
スケベもいますし堅物もいますよ。道場に入る前後での変化は、スケベはより明るいスケベになるような気がします。堅物もより明るい堅物……?あ、私のこと? 私は、なんだかよく分かりませんねぇ。
これは修行云々よりも、余剰エネルギーの問題という気もします。ご賢察ください。
Q7 悟りの境地に近づいたと思う瞬間はありますか。またそれはどんなときですか。一般の人でも、何かに一生懸命取り組むことで悟りに近づけるのでしょうか。
A あまり「悟り」という言葉で考えないほうがいいと思いますよ。私の師匠は、「現実生活で悟りなんてありえない」としばしば仰っていました。ただ世界を感じる主体そのものが薄れる状況は、坐禅にかぎらず何をしていてもあると思いますよ。要は分別が生まれる前の命の営みを感じることです。それにはまず何かに習熟し、無意識に体が動くような状況に身を置くことが大切だと思います。
玄侑 宗久(作家、福島県福聚寺住職)
1956年福島県三春町生まれ。慶應義塾大学中国文学科を卒業後、さまざまな職業を経験してから京都天龍寺専門道場に入門。三春町福聚寺の副住職をしながら書いた『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。花園大学国際全学科および新潟薬科大学応用生命科学部の客員教授。福島県立医科大学の経営審議委員、東京禅センター理事、東日本大震災復興構想会議委員、原発で被災した子どもたちを支援する「たまきはる福島基金」の理事長でもある。禅についてわかりやすく解説した著書多数。
イラスト:田中ひろみ
丸の内はんにゃ会代表。はんにゃ会へは創立当初から携わり、現在は3代目の代表として活動。仏像巡りから荒行まで精力的に体験している。女流仏像イラストレーター・ライターとしても活躍中。奈良市観光大使。『美しき仏像』(ぶんか社)、『田中ひろみの勝手に仏像ランキング』(メディアイランド)『クイズで入門 日本の仏像』(講談社+α文庫)など、著書多数。
【バックナンバー】
『環境会議』『人間会議』は2000年の創刊以来、「社会貢献クラス」を目指すすべての人に役だつ情報発信を行っています。企業が信頼を得るために欠かせないCSRの本質を環境と哲学の二つの視座からわかりやすくお届けします。企業の経営層、環境・CSR部門、経営企画室をはじめ、環境や哲学・倫理に関わる学識者やNGO・NPOといったさまざまな分野で社会貢献を考える方々のコミュニケーション・プラットフォームとなっています。